AVATAR アバター

製作に4年かけたというジェームズキャメロン監督の新作「アバター」を観た。以下備忘雑記につきネタバレ御免。


















映像が凄い。どこまでがコンピューターグラフィックス加工されているのか判別がつかない。4つ目の龍や6つ足の馬や蛍光色に発光する木々。世界樹のような巨木と浮遊する巨岩、それを取り巻く豊かな自然。映像と世界観が美しくてファンタジーの世界に憧れたことがある人ならばワクワクする。

しかし最初から最後までストーリーの展開が透けてしまう。途中で気付いた。これは未来の空想世界を舞台にした、ケビンコスナーが監督主演したアカデミー作品賞受賞作「Dances With Wolves」だと。

米国北軍の中尉がフロンティアの砦に赴任することになるが、大怪我を負ったダコタ語を理解するスー族の女性との出会いを通じてスー族で暮らすようになり、自然と共生する彼らの価値観と生き方に傾倒していく。インディアンの言葉であるダコタ語を覚えていく過程であるとか、最初は笑われながらも狩りの技術を学んで行き、スー族の戦士に認められていく過程なんかは見ていて楽しい場面だ。そして最終的には強大な軍事力にあまりに劣勢であることが自明であるにも関わらず、自分の出自である白人の側ではなくスー族の側に立って戦うことを決意する。

映画アバターでは二度と自らの足で歩くことが適わなくなった男がアバターに意識を転移させることで再び自らの足で立ち、ナヴィ族と共に暮らす機会を得る。人間との衝突が表面化する以前に、下半身不随の現実よりも酋長の娘に言葉や狩りを教わりながら走り回るナヴィ族でのアバター世界に現実逃避するかのように傾倒しているのが残念か。人間に反旗を翻して撃退に成功したところで映画は終わるが、その後はどうなるのだろう。結局は強大な人類の軍事力の前に殲滅させられるか駆逐されてしまうのではないだろうか。映画でも、人類が資源獲得の為に軍事力の劣る種族の異なる価値観をなんら認めることなく、武力行使に出るような人類として描かれている以上、アバターの世界でもアメリカ大陸でインディアンを虐殺迫害した同様の歴史を繰り返すように思えてならない。ハッピーエンディングにせずに悲哀のまま終えたほうが観る側に強く業深さを訴えかけられたように思う。

水を差すようなことを書いたが、「Dances With Wolves」は素晴らしい筋書きの素晴らしい映画だ。映画館で観た時にはフロンティアを切り開く白人を襲う悪者のインディアンという構図をひっくり返した映画の視点と歴史の勝者の醜悪な一面を晒す展開に衝撃を受けた。ただ今までの価値観と暮らしを守って生きたいだけの部族が殺戮され淘汰された歴史の残酷さを知った。争いは常に正義対悪の2元的で単純なものではないと最初に教えてくれた映画だった。映画を観終わった後は悲しくて仕方が無かったし言葉が無かった。

もう20年近く前になるこの映画を知らずに、多くの子供がアバターを観ることだと思う。小生がまだ小学生だった時に受けた衝撃を同様に受けて感動してくれていたらと思う。アバターも同様に良い映画だと思う。もしかしたら、小生が20年前に感動していたその映画館で、「あーこの筋書きは1970年の映画のあれと一緒じゃないか」などと思っていた人もいたかもしれぬ。知識や記憶が邪魔してそのままに鑑賞することが出来なくなってきたのだろうか。ただ、アバターを観終わった客に涙は観られなかった。新鮮さを既に欠いてしまっているのか、アバターが「Dances With Wolves」に及ばないのか判断がもうつかない。

とはいえ、仮に三十になるおっさんが筋書きが他の映画に似ているなどとケチをつけようが、最先端の映像技術を用いて今の子供に魅力的な世界観を通じて同様のことを伝えていくことには非常に意義があるように思った次第。