セルフブランディングの浅薄

つくづくわからんなあと思う。

誰しも様々な側面を持っていて然るべきで、その時々で振る舞いにブレも多少は出てくるだろう。だからこそプリンシプルをもって一貫した姿勢を貫ける人は格好良く憧れの対象になる。それを積極的に実態以上に単純化し喧伝するのがセルフブランディングなのかもしれない。メッセージは絞り込まれてシンプルなほど伝播しやすいのだろう。

槇原則之は酒井法子ほどに騒がれなかったし、タイガーウッズにしろこれがマドンナやパリスヒルトンならそこまで騒がれないわけで、まさに本人の対外的なエクイティが清廉であったりしたからなわけだ。セルフブランディングは自分に言い聞かせて律する背骨にもなるのかもしれないが、息詰まらせるものなのかもしれない。芸能人に限ったことでなく、自分自身も自分が普段接する人も、それぞれに複雑で多面性を持つのだと改めて思う。

最近セルフブランディングやセルフマーケティングに関した本を目にする。その効用を否定するつもりはない。恐らく厄介なのは、人は一般的に「こうでありたいと描く姿」にセルフブランディングしてしまうからなのではないだろうか。自分を冷徹に見つめた上で見栄というか八方美人な下心を除いた自分をセルフブランディングすればボロも出ないのだろう。しかし残念ながら、「等身大の自分」がとても魅力的な人はそんなにいないというのも事実だけれども。


マンゴーを見ているとセルフブランディングなんて必要なのかと思ってしまう。エクイティは悪戯、愛嬌。天真爛漫である。