樹と禅の縁

今日は航空便が届くというので早く引き上げてきた。さて、雑記は引き続きGleenBeltから。


この天を覆わんばかりの巨樹。なんとも涼しげな木陰を作ってくれているのだが、この雨をスムーズに受け流す為に発達した葉の形を見て、ピンときたことがある。


これは、インド菩提樹ではなかろうか。お釈迦様がこの樹の下で悟りを開いたと言い伝えられるそれである。私が度々植木を買っていた店で見かけて以来、欲しかったのだが寒さに弱い樹木ゆえ断念していた憧れの樹でもある。サイトには1m前後の鉢しか売っていなかったが、こんな巨樹をマニラの中心で見られるなんて!


ちなみにZen gardenと称する庭には竹が植わっているのだがよく見ると日本で馴染んでいる竹とは随分と違うことに気づく。節の感覚が格段に狭く、切った後もどちらが上か容易に判断できる形状をしている。


ふと、渡比前の京都の送別会で禅僧のTさんから扇子を頂いたことを思い出した。

その扇子には「竹有上下節」と書いてあり、Tさんに意味を聞くと「そのまんまや」と仰っていたので、「ああ竹の上下には節がある。そうだなあ。あたりまえのことを言っているんだなあ」などと深く考えなかった。マニラの竹を見てから気になったので調べてみると、こうあった。


松無古今色 竹有上下節 (松に古今の色なく 竹に上下の節あり)
夢窓疎石


「松は、千年万年の緑を常に保ち、その色は不変です。しかし、毎年葉は変わります。一方、竹には上下の節があって、その節で上下が判然と分かれていますが、同じ一本の竹です。つまり、この対句は、平等の中に差別があり、差別の中に平等があるということを示しています。」−禅語便利帳:主婦の友社

松は絶えず緑であると言われながらも、その中には古葉と若葉の古今の差別が歴然としてあるし、竹の節には歴然とした節という上下の差があるが、全体としては優劣の無い同じ一本の竹である。それが平等の中に差別があり、差別の中に平等があるということらしい。

平等と口にしようとも、世の中は誰もが完全同一ではありえず、それぞれには個性も特徴もあり境遇も役割も違う。家庭には親子男女の違いがあり、組織にも上下の関係が有り、社会には貧富の差があり、長幼の序があって調和する。それを老幼の差別順序を無視したり、機会平等としての貧富や優劣のみを認めるのではなく、人間(あるいは物事)としての本源的な平等に目を向けなさい。

そういう意味らしい。(あってるだろうか)

差別や平等が綯い交ぜな現実を受け止めた上で、改めて人を敬い節度を持って生きるということか。折りしも一層の貧富の差を感じずにはいられない土地に来る時節、それを見越してTさんはこの扇子を下さったのだろうか。最近思っていたことに全てが関係しているようで、不思議な物事の繋がりと縁を感じる。