マゼランとラプラプの矛盾

今日はセブを観光して回った。

一番の観光名所はサントニーニョ像とマゼランクロスのあるサントニーニョ教会。1521年にセブに上陸したフェルディナンド・マゼランはセブの領主であったラジャ・フマボン(Rajah Humabon)とその王妃、住民たちを改宗させることに成功し、彼らはフィリピン初のキリスト教徒となった。これを記念してマゼランは幼いイエスキリストを模したサントニーニョ像をフマボンに贈り、巨大な十字架マゼランクロスを作り記念碑として据えた。マゼランはその後も侵略と布教を進めていったがマクタンのイスラム教徒領主ラプ=ラプはそれを拒み、マクタン島での戦いでついにマゼランを討ち取る。これにより今日でもラプラプはフィリピン民族の誇りを守った英雄と祭り上げられている。マクタン島中心部はラプラプ市と名付けられ、脂の乗った高級魚にもラプラプと名付けられている。

サンチャゴ要塞はマゼランの後を継いで侵略を進めたレガスピによって築塞された。侵略を拒み抵抗を続けるセブの人々の夜襲を防ぐためだったらしい。歴史を追う限り、当時の人々の一部は明らかに侵略と認識して抵抗していたようである。

ここで疑問に思うのはマゼランとラプラプの扱いの矛盾である。マゼランクロスは削って飲むと難病をも癒すを信じられ、サントニーニョ像を拝もうと多くの人々が訪れ、キリスト教はフィリピンに強く根付いた宗教となっている。マゼランはキリスト教をフィリピンにもたらした伝道者である。しかしその一方でそのマゼランを殺害したラプラプは侵略に反対した英雄として祭られているわけである。マゼランとラプラプの扱いのこの矛盾をフィリピン人はどのように解釈しているのだろうか。



(写真はサントニーニョ教会外観、内観、サントニーニョ像の模品)

ちなみにマゼランについて少し調べてみるとなかなか興味深い。ポルトガル王に西回り航路開拓を進言したが受け入れられなかったマゼランは、ついにスペイン王の庇護を受け5隻で航海に出る。南米ラプラタ河を発見したマゼラン一行は詳細な調査の末ラプラタ河が太平洋に抜ける入り口だと期待していたが、単なる河川だったことがわかり失望に終わる。これによりマゼランに対する不満が高まり3隻による反乱がおきている。その後、マゼラン海峡を発見して抜ける間にも船隊最大の旗艦サンアントニオに反乱により多くの食料を積んだまま本国に逃亡される。(離反船は無事スペインに帰還)

マゼラン海峡を抜けた後は広大な太平洋がひたすら続き、途中ふたつの無人島を発見したが、3ヶ月以上も食糧補給ができず飢えに苦しんだらしい。1521年太平洋に出てから実に99日目にしてついに有人の島を発見し、島の村落を襲って島民らを殺して食料を強奪するが、現地住民によって奪還され、怒ったマゼランは焼き討ちをかけ、ここをラドロネス諸島(泥棒諸島)と名づける。この島は現在のグアムだとされる。

そしてその後フィリピンに到着したマゼランは既述のようにラプラプに討ち取られる。その後、スペインに無事帰ることが出来た残存はわずか1隻18名だという。

マゼランはどうやら香料諸島への航路開拓による富と名誉を夢見た冒険者であり、けして布教を目的としていたわけでもない。故に信仰によって船員を統率出来ていなかったようで反乱に苦しんでいる。それにしてもグアムの島民を殺害して食料を略奪した挙句、反抗され奪還されたことに腹を立て泥棒諸島と名付けていることなど傲慢甚だしい。フマボンがマゼランに改宗を願い出たのもマゼランがフマボンを王として周辺の島に要求したことからもわかるように単に政治的な交換条件だった可能性が高い。

なんとも血生臭い歴史だ。マゼランを知るにつれ、彼を討ち取ったラプラプを英雄視するのは筋が通っているように感じる。しかしその一方で、生臭い経緯で伝えられ、植民地侵略に重要な役割を担ったキリスト教に深く帰依することにフィリピン人に感情的しこりが無いものなのか依然として疑問は残る。