豚に真珠 前編

QVCというインターネット通販で合成樹脂と漆の混成品を漆器として売っていたのを咎められ排除命令が出された。しかしそれなりに長く売られており、問題になるまで時間が経っていることを考えると、漆器と思い込んで使っていた人も多いのではなかろうか。

漆器の塗り方によっては合成樹脂と見分けが付かないものもある。特に木目の見えないような厚塗りの漆器の類は見分けるのは難しい。薄手の椀は軽いので重さは参考にならない。耐熱漆器なんてのもあるから判り辛い。叩いたところで判る人は少なかろう。

販売会社が廉価品に暴利を乗せて消費者を騙すのは議論の余地なく許すべきではない。しかしふと逆から考えると、本漆器と思い込んでスプーンとフォーク計4本のセット「もてなしサーバーセット」とやらに2940円を払って気を良くして使っていたなら、気付かないのはそれで幸せかもしれない。

小生は木目の光沢のある美しさが好きなので、合成樹脂の類似品と欲しい漆器を間違えることはなかなか無い。しかし極論すれば、木目を美しく再現できている合成樹脂の類似品でもそれが満足できる代物なら構わない気もする。

もし真贋がわからないなら、贋物で満足する価値観を身に付けるのもありなのではないのかね。

パッと見て真贋がわかりづらいものには真珠とプラスチックがある。プラスチックの光沢だってあれはあれで美しい。何層にも塗装すれば色に深みも出る。7層に塗り重ねた「椿」というシャンプーのボトルは石油化学品にも関わらずなかなか色に深みがあって陽を透かすと大変美しい。人工ダイアモンドに至っては天然ダイアモンドの輝きと見分けは付かない。

要は値段で価値を測ってやいやしないかということだ。真贋の区別が付かないなら、贋物でも十分綺麗だと思えると言うことであるし、満足できるわけだ。本物の漆器だけが持つ特徴を本当に認識した上でそれが好きなのか。そうでないなら既成概念を捨て、合成樹脂の美しさを、プラスチックの美しさを、人工ダイアモンドの美しさを新鮮な気持ちで楽しんでやれば良いのだ。

判断する目、鑑賞する目が無いのに真贋に拘ることこそ本質が無い。単に騙されたくないだけなら、最初から合成樹脂や人工品を楽しんだほうが間違いが無い。ルネッサンスなんて見方によればあれは壮大な模造品文化の潮流だ。それに何の問題があるのか。そこに不快感が残るなら、それは恐らく単なる見栄だろう。