Pedro

セビーリャから30kmの高台にある町、カルモナは、フェニキアカルタゴ、ローマ、西ゴート、アラブ、ユダヤキリスト教徒と数々の民族が支配し、軍事上の要所とされてきた長い歴史を持つ。712年からイスラム教徒によって侵略されていたセビージャの町は1248年にフェルナンド3世によって奪回される。この曾孫にあたるペドロ1世によって、荒れ果てていたカルモナのローマ時代の城壁に3つの一つMarchena門の要塞をイスラム教徒の職人を使い、自分の居城として改装したのが王城としての始まりらしい。

王城を築いたペドロ一世とは波乱万丈の人生を送った王であるらしい。残酷王、正義王という相反するような愛称を持つ。

ペドロ1世はカスティーリャ王アルフォンソ11世とポルトガル王アルフォンソ4世の娘マリアの間に生まれる。正式な嫡男だったが、意にそわぬ政略結婚から生まれたためか実父から愛されず、母からも冷遇されて育った。父の病死を受けて世襲するも家臣や母マリアに抑えこめられ当初は傀儡政権の様を呈していたらしい。家臣間の内紛を期に実権を握り、母をポルトガルに追放した。異母兄も国外へ逃亡し、以後敵対することになる。彼の家庭環境に肉親の情は殆ど見受けられない。

以降、彼の人生はカスティーリャ王室と対立する貴族達との戦いであったらしい。有力貴族を弾圧して王権強化策をとり、下級貴族の文官やユダヤ人を登用した。それらの過程で行った処罰や制裁が残酷王と呼ばれる由縁らしい。また、政略結婚でブルボン家カストロ家から嫁いできた王妃を幽閉し死に至らしめたり息子を産ませた後に捨てたりしている。

ペドロ1世が彼の後宮の中で生涯愛し続けた女性は妾のマリア・デ・パディーリャだけであり、カルモナの王城は妾との隠遁の場という意味合いも強かったようだ。改装には、彼の指示で造られたSevillaのAlcazarと同じ職人を使いCarmonaにいてもSevillaを羨むことのない素晴らしい城を造らせたのだと言われている。

愛情の無い両親や王妃、そして常に転覆を狙う貴族達に非情に振舞った彼の行為は褒められたものではないが、心情がわからないわけでもない。これだけを知ると愛情を知らずに歪んで育った王のようにも思えてしまう。しかしその一方でペドロ1世の治世下ではカスティーリャ王国は治安が良く、その恩恵を受けていた商人達はペドロ1世の没落を惜しんだとされている。ペドロ1世に好意的な人々は、彼は単に法律に従わない、あるいは他人の権利を尊重しない者たちを殺しただけであるとした。後の世になって彼の評価は見直され、その公正さから「正義王」という別名がつけられた。このように違う側面を見るとペドロ1世が自身の境遇を嘆きながらも王としての務めを果たそうと懸命だった姿も伺える。政略結婚や貴族らの権力争いの醜さを心底軽蔑していたのかもしれない。