グラスホッパー

寛いでいると大きなバッタが近くによって来た。私らが他の席に移ると今度はそちらに飛んできた。たまたま嫁さんが伊坂幸太郎の「グラスホッパー」という小説を読んでいたのでそのせいだろうと話していた。


通常の緑色のトノサマバッタは単独相あるいは孤独相と呼ばれるが、密集したところで育つと群集相と呼ばれる黒いタイプになるそうだ。伊坂幸太郎曰く、群集相のバッタは黒くて翅も長く、凶暴らしい。仲間がたくさんいる場所で生きていると餌が足りなくなるから、別の場所へ行けるように飛翔力が高くなるのが理由らしい。
著書ではこう続く。どんな動物でも密集して暮らしていけば大抵種類が変わっていく。慌しくなり凶暴になる。群集相は大移動をしてあちこちのものを食い散らかす。仲間の死骸だって食う。緑のトノサマバッタとは大違い。バッタは翅が伸びて遠くへ逃げられるが、人間はできない。ただ、凶暴になるだけだ、と。

トノサマバッタの単独相から群集相への変異は事実な様で、高密度での飼育が三世代ほど続くと黄緑色から褐色に変化し、飛蝗となってしまうそうな。ただ、群集相が凶暴かということに関して真偽のほどはわからない。単に小説に都合の良い解釈のような気がする。もちろん人口密度と犯罪率に比例関係だってあるわけでもない。とは言え、Carmonaのように牧歌的な風景の中で、道行く人にHola!と明るく声をかけられると、群生しない人間のほうが大らかに思える。私には都会に群生する人々のほうが短気で攻撃的で競争心があり自己中心的で他者を慮らない様に思える。自分を含めてだ。 

仮に群集相の人間がより攻撃的で競争的だとしたらそれはなぜだろう。

もしかしたら、他人一人一人のそれぞれに対する重みが違うからではなかろうか。とりあえず、家族や友人知人など既に特別な意味を持つ人を除き、赤の他人に限定する。例えば人口100人の村であれば、他人であろうとも少なくともそれぞれが1/100の重要性と存在感をお互いに持つ。しかしそれが人口100,000人の都市であれば一人の他人は1/100,000の存在感しかもたないのかもしれない。友人知人でもなく、わずかな存在感しか持たない他人には後先考えず横暴に振舞えるのかもしれない。

あるいは、所属コミュニティーとして認識できる範囲には限度があるからかもしれない。仮に何かを自分がもらえなかったとしても、代わりに家族がもらえるならば喜べたりする。自分が逃しても代わりに友人が得られたのなら喜べたりもする。しかし自分が逃して見知らぬ誰かが得をすることを喜ぶのは難しい。知らぬ誰かに取られるぐらいなら自分のものにしたいとの競争心は働かないだろうか。知覚できない数の人が群生する環境では、少しでも見知らぬ誰かより多くを得ようと積極的になるのではなかろうか。人よりも良い思いをしたい。人よりも多くを得たい。

単に、資源が有限であることを本能的に知るが故に、他に先んじて自分が得て生き延びようと本能が駆り立てるのかもしれない。

幸い、自分が群集相の人間だとしても伊坂幸太郎の主張に反して自分には翅がある。こうして密度の低いCarmonaのような所まで飛び、黒ずんだ心を緑に戻すことができる。広々とした田舎に来ると本当に心が安らぐ。