引き際

とあるコラムニストの話。

経営者は負け際、負けっぷりのいい人が向いているという。例えば、ビジネスで何かが成功したとする。しかしビジネスモデルの中に欠陥があった場合、優秀な経営者というのは、その最中に、あっ、これはもうだめだ、これは失敗する、と分かるらしい。
 まだ表面上は、売り上げが伸びており、顧客も増えている。社員も周囲も「狙いは当たりですね」「投資していきましょう」「もう社長、大成功ですよ」などと言って勢いづいている中で、店仕舞いできるのが真に優れた経営者だという。

負けを察知して先んじて手を打つということだ。経営者は負け際、引き際を知ることで壊滅的な被害を免れるし、再挑戦する選択肢を残せる。

こんな話に対して、少なからず多くの人が賛同するのだろうが、しかし個人の話になると、絶対あきらめるな、みたいな話になりがちである。

引き際を考えることよりも、諦め続けず頑張ることが否応なく正しいかのような雰囲気がある。果たしてそうなのか。

既に軌道に乗っている「負けられない人」というのが人生においては一番脆弱なのかもしれないという斜めな視点。勝たなければいけない状況にあると、打てる手段は限られる。そして勝ち続けられることは現実的にはない。まだ負けられる状態にあるうちは取れる選択肢が広い。個人として負けるべき時に負ける。明るく負ける。そして次の手を打つ。

こういう考えもあるのだな。弾力性のある生き方というやつか。目の前のことに全力を尽くすというのは美しい。ただ長期的成果を最大化するために局所的に潔く引く、方向転換をするということもひとつの全力のつくし方だという風にも考えられる。盲目的に目の前のことに全力を投じるのは、長期的、大局的に考える努力を怠っているという点で全力を尽くしていないというわけか。

諦めずに続けることの是非に関して自分なりの判断基準はある。損得なく、好きだからやりたいことに関してはとことんやればよいのだと思う。ただ食い扶持の為だのしがらみだので、すべきこととして状況判断した上でやっているようなことに対してはよくよく客観的で柔軟であるべきであり、個人としての負けっぷりの良さも必要だと思う。