犬は犬

とかく躾に失敗して甘やかし放題になりがちな室内犬。全般的には欧米人のほうが歴史的に犬との付き合い方が上手だと思う。犬を家畜として扱うその一線が明確に引けているからだろう。

人間社会で人間とともに暮らすからには人間のルールを覚え込ませないといけないという大前提の理解がある。

西洋宗教では人間と動物の間には歴然とした格差があり、人間は動物の上位に位置する。一方では仏教など輪廻の概念がある宗教では、現世で人間であれども前世来世は畜生かもしれず、人間は生けるモノの一種に過ぎない。そんな背景から犬を家畜として使役することに違和感の無い西洋人に対し、日本人は犬を同列に家族の一員として扱い、擬人化すらしてしまい、嫌がることを避けて犬の喜ぶことだけさせる傾向があるとの見方もある。

ふと思ったのだが、日本人に有り勝ちな可愛がり方は将来に責任を持たず、その場で好かれたいだけの孫を可愛がる祖父母に似ている。歯に悪かろうと飴玉を挙げ、金銭感覚が狂おうとも少し豪華な玩具を買い与えて子供の機嫌をとってしまう。子供は祖父母に甘えることを覚える。一方、西洋人の飼い方は、きちんと社会で生きていけるように躾けようとする厳しい親に似ている。ただ、人間の子育てと違うのは世間知らずの我侭に育てても犬は自立自活することを求められない。終生人間に依存して生きていく。閉じ込められた空間の中で馬鹿犬に育てようが飼主が受け入れられるならそれは成り立つ。

こういう意識の差は明確に自覚することなくいつの間にか言動に現れてしまうのだろうな。いづれにしろ、犬の性質からすると上下関係を明確にし、人間社会に適応させるほうが犬には良いように思う。所詮犬が家庭の中でボスだと勘違いしたところで自由に出来ることは少ないのだから。思い通りにならなくて部下の人間に吠え続ける馬鹿犬になるだけだ。安心して気兼ねなく人に会わせ、外に出せる犬のほうが犬として一生を楽しめるのではなかろうか。

あとは感情論として、擬人化や犬の名前に敬称をつける表現は気持ちが悪い。「マンゴー君」なんて間違っても呼ばないで貰いたい。マンゴーはマンゴーだ。「男の子」ではなく「雄の子犬」だ。「御飯を上げる」ではなく、「餌をやる」で良いのだと思う。せめて「メシ」だ。それでも溺愛していることには変わりない。

さて、人間の子供にすら甘いフィリピン人家庭では犬はどのように躾けられるのだろうか?