飼主一考

4歳児が秋田犬とロットワイラーに噛まれて死亡するという痛ましい事故が日本で起きた。記事に対して飛び交っている飼主、非飼主の様々な意見は犬を飼い始めた身としていろいろと考えさせられる。今時点での考えを書き留めておく事にする。

「なぜ人が人を殺しても死刑には滅多にならないのに犬ならば即殺処分になるのかは理解できない。」「人の命も犬の命も平等」「犬は家族の一員」そんな犬擁護派のコメントを散見する。

愛玩犬に限って言えば、心の慰めやら、寂しさを紛らわす為やら、暇つぶしやら、人が自分の都合で飼っていると思っている。その身勝手さは常々自覚しておいたほうが良いのではないかと思う。犬を擬人化して人間社会の構成員かのように扱うところに様々なペットにまつわる諸問題の遠因を疑う。

「ケージやリードで繋いだら虐待だ。可愛そう」だとか、「自分がされたら嫌なことをなんで犬にするのか理解できない」なんて物言いには呆れる。

事実として人と犬は対等ではない。犬に限らず牧場の牛も養豚場の豚も動物園の鑑賞目的の象やら猿やらも人間社会で何らかの役に立つから存在している。あるいは「利用している」と言ったほうが良いかも知れぬ。
法律の成立背景がなんなのかはわからんが、法律上ではペットは器物であって人格は無い。悪意のある他人に愛犬を殺されても器物破損として軽微な罪にしかならんのは腑に落ちんがそれは置いておく。感情を持つ生き物として「器物」ではなく「人未満の生き物」とせめて認めてもらいたいところだが、人と対等ではない、人の管理所有物という位置付けは妥当なものだろう。

当たり前だが犬の知能は人ほど優れてはいないし、人間社会に完全に適応する判断能力も学習能力も無い。「わたしのワンちゃんは私よりも賢いの」と主張する、犬より知能が低いことを自覚する人がいたらそれはご愁傷様だ。
人が自己都合で、自立適応するには能力的に至らない動物を、人間社会で飼おうとしていることをしっかり自覚することが犬を適切に飼う為の出発点だと思う。

この事件では管理できていなかった飼主に非があるとして、犬を殺処分にする必要があるのか。これは正直わからない。一度人を殺めた犬はまた繰り返す可能性を排除できないというのがなんとなくの根拠のように思う。獣は人間の血肉を一度味わったらけして忘れることは無いなどと怖い話も聞く。躾ける際には現行犯で叱らないと犬は因果関係を理解できないなどとよく本には書いてある。子を殺した時点で飼主から全治数週間の怪我を負うぐらいの罰を受けないと、子を殺してはいけないとは身をもって理解できないのではないか。犬を人は理解しきれていないのかもな。いずれにしろ殺処分は間違っても犬に罪を償わす為なんかではない。疑わしき危険は取り除くということか。だから「犬に罪は無い」なんて擁護も意味を無さない。


こんなチンチロでもどんな野性を秘めているのかはわからぬのだから。