知った上で見限る

知ってから見切りをつけるというのは意味のあることだと思う。

特に経済的な観念に関して、ありていに言えば金に関しては。金や権力を知らずにきて、壮年にしてあっさりその魅力に身を狂わして道を踏み外すなんてのは別に珍しい話ではない。貧しい家庭に生まれ、経済的成功に捉われるなんてのもそれだ。赤ん坊だって自己占有欲がまず先立ち、所有する段階を経て始めて他の子供に玩具を貸すことができるようになる。

知らぬものを否定している状態というのが一番怖いのではないかと思う。そして自分に真に価値のあるものはそれなりに様々なものを見知った上でしか見えてこないものなのかもしれないと思う。仏陀が王子としての裕福な生活や妻子を捨て悟りの道を探求したように、などと言えば大袈裟過ぎるが。

自分に関して言えば、そこそこ恵まれた環境に育っている。子供のころに一家四人を一ヶ月近く欧州旅行に連れて行ってくれるほどに裕福ではあった。味噌ラーメンを食べさせてくれなかったり、いつも近所の子の束のビックリマンシールを羨んではいたが、平均よりはかなり高い生活水準だったはずだ。今も会社の手当てあってのことだが、芸能人や金持ちが多く住む、フィリピンで家賃25万円近くもする一等地の高層マンションで運転手の居る生活を送れているわけだ。

では日本に帰って今のような、あるいはより豪勢な生活を送りたいかというと否。その為に頑張れるかというとそんな気はさらさらない。年収数千万円のサラリーマンの生活水準がどの程度のものかを子として、あるいはフィリピン生活で擬似的に体験することができた。その上ではっきりとわかったことは、豪奢な生活は自分の働く動機にはならないということ。ポルシェに憧れて頑張れるタイプではない。おそらく年収1億の暮らしを手に入れても大して面白くは無いかもしれない。

知らぬものを否定するのが怖いなどと言って置きながら、既に一貫性が無いので開き直って訂正すると、一切知らずに忌んでいるようでは足元が心許ないが、かじって知った気になって見限るのは恐らく良い。せいぜいこんなとこか。年収数千万ならこんなもん。年収一億円でも所詮こんなもんだろうな、なんてな風に。

無機質な高層マンションはつまらない。何かを植えられる土のスペースがあったり、アンティークのものをさらに使い古したり、買うよりも何がしかを自分で作るほうが楽しい。服にもファッションにも金のかかるゴルフにも興味はないし、一人では酒も煙草も呑まない。こと、望む生活環境に関しては今の収入の半額ぐらいで維持できるような水準かもしれない。そこから先の幸不幸は工夫次第だ。それよりも仕事で何の価値を生み出していくかのほうが重大懸念である。

結局、今の会社の中で、より上の待遇や収入は動機にならない。そうなると仕事の中に強固なやりがいを見出せなければ、この先、続けていくことは難しいだろう。

子供ができれば、そんなこともいっていられなくなる。そういう見方もある。習い事や学費など金が無ければ制限されると。しかし生き生きとプライドを持って働いている姿を子に見せることのほうが重要ではなかろうか。愚痴をこぼしながら家にも寄り付かずというのではあんまりだ。極論を引き合いに出しても仕方が無いが、金で子は育たないと思うのである。