人口学から見る日本の戦国時代

歴史上、日本社会を大きく揺るがしたのは、14世紀後半の応仁の乱から17世紀初めの江戸幕府成立までの、約1世紀半にわたる戦乱の時代である。しかし、なぜこのような長期の戦乱時代が到来したのか。室町将軍の権威失墜を背景として、山名宗全細川勝元の私闘だったとされて、物語的な経緯は多く語られているが、マスの力学としての社会科学的な説明は聞いたことがない。

近年、日本中世史家の藤木久志氏(立教大学名誉教授)は、14世紀に入って天候不順が続き気温が低下した結果、全国各地で飢饉が頻発し、食い詰めた農民が流民となって京都に大量に流入してきたことを戦乱時代のきっかけと指摘している。

 鎌倉・室町時代前半までは、3〜5年に1回程度発生した飢饉は、応仁の乱前後以降は、2年に1回の頻度で発生したとしている。応仁の乱の直前には、「京都内の餓死者8万人以上」とも言われている「寛正の大飢饉」が発生している。これらの各地からの飢饉流民は、やがて雑兵・足軽となって各勢力に組み込まれ、次第に不穏な情勢が醸し出されたとしている。 京都だけでなく、全国の領主は、食糧確保を巡って近隣と小競り合いを繰り返すようになり、これが京都内の私闘開始に連動して、次第に全面的な騒乱状態に至ったようである。

14世紀の気温低下、天候不順は、屋久島の古代杉などにも年輪幅として証拠が残されている。また、世界的に長期趨勢的なものであったことを、北半球の氷床コア分析等の証拠によって、カリフォルニア大学のフェイガンも指摘している。気温が低下したことによって、各地域の環境容量が縮小し、相対的に人口が過剰になっていったというわけである。その前提として、13世紀までは、日本でも欧州でも温暖な時期が長く続き、人口が徐々に増加していた。温暖化から急激に寒冷化に向かった気候変動によって突然人口が過剰になったことが、全面的な戦乱の大きな要因になっていることは間違いないように思える。人口そのものが急増していなくても、寒冷化で環境容量が縮小したために人口過剰になったのである。

 戦国時代とは、寒冷化による過剰人口を背景に、各領主と、雑兵・足軽化した農民の食糧確保を巡るサバイバル戦争という性格が強かったと捉えることも可能だろう。