敦煌-日曜日に、やっさん

親しみを込めて、井上靖をこう呼ばしてもらおう。勝手に。

日曜日に井上靖は読むべきでは無いな。
相変わらずスケールの大きな小説を描く。「天平の甍」でも「敦煌」でも、普遍の真理が記されたはずの仏教経典は儚く無残に散逸する。生涯をかけて仏教に関わった先人の努力が風化する様も時代の移ろいもまた仏教的無常を描いているように感ずる。

「辺土に居る限り、死は常に彼の周辺を取り巻いていた。実際に行徳は、毎日のように死んで行く人間を眼にしていた。人は一夜病んだだけで呆気なく死んでいった。」

たった数日だけれども、地平線まで広がるモロッコの沙漠やシリアの礫岩の広原を延々と歩いた体験から、なんとなく描かれた世界が肌感覚でわかる気がする。どうもこうもしようがなくてインシュアラーと天を仰ぐモスリムの気持ちもほんの少しわかった。

井上靖の小説を読むと次の日はえらく無気力になる。自身が携わっている眼前の全てが瑣末に思われるし、自分のしてきたこともしていることも全て無意味に思えてしまう。ただ、虚無感に襲われるのとは異なり、失望においやられるのとも違う。近視眼的に意味を理由付けて誤魔化していたものが、より大きな尺度で測り直され、吹き飛ばされてしまうような。これで良いのかと問い直されるような思いだ。人の一生が短く儚いなら、なおさら不本意なことや柵に囚われて現状満足や妥協をしていてはしょうもない。

それでも月曜から再開される雑務に向き合わなければならなくて、現実に戻ってくるのに難儀する。

水面に反射する緑を楽しみながら、沙漠の西域を舞台にした「敦煌」を読んだ。こういう景色を見るとすぐに明鏡止水だとか鏡花水月なんていう言葉が浮かぶが、両者とも字面が似ているがこの景色に合致するのは鏡花水月のほうか。小説の中で主人公、張行徳が求めたのは明鏡止水の境地の経典。どちらも儚いという点で図らずも意味が通じるというかなんというか。

熱帯の国に居ると、腐食と再生の速さに驚く。先日、見事に咲き誇っていた花は既に朽ち、何も無かった場所に、もう新たに萌芽している。そんな循環の中だからこそ写真のような瑞々しい緑を拝むことが出来る。腐食にだけ眼を向けるべきではなく、腐食と再生の繰り返しに眼を向けるべきなんだろうな。転じて、老いと死だけでなく生とその循環に眼を向けるべきなのだろう。それはとても難しいことだけれども。