誕生日於紀伊乃国屋

当初は箱根の温泉に行きたくて宿を探してもらっていた。「強羅花壇」とか「強羅天翠」とか、「風のこみち」のほかに去年行った「望水」も検討したがどこも満室だったり眺めが悪い部屋しか残っていなかったり。どこも二人で6万円以上するような宿だから、展望の悪い部屋だとどうしても値段に見合わないと感じてしまう。

嫁さんにさらに探してもらったところ、千葉の内房は勝山にある紀伊乃国屋という温泉割烹旅館をみつけてくれた。敢えて千葉というところが灯台下暗しというか盲点といった感がある。


旅館は民家の中にあり、外観もモルタルとコンクリートで覆われていて旅情を誘うものではない。中に入ってみると天井がとても高い。部屋は綺麗にされているものの、窓からの眺めは僅かに日本庭園が見えるだけで別段良いわけではない。畳は市松模様で縁は桜と亀甲でなかなかよい物を使っている。壁は和紙風の壁紙で腰が黒、上が淡い紅色となっている。冷房の前に竹の柵をぶら下げて目隠しするなど工夫している。窓には樹脂製で防音性の高い障子を模したものが嵌っているが縁がプラスチック製だとすぐわかってしまうのは残念。その上には御簾がかけられているが、簾は太く良いものとは言えない。

お風呂も貸切露天風呂や貸切内風呂があったり、色浴衣を自由に選べたり最近の流行を積極的に取り入れている。しかし他の内風呂も非常に狭く、屋上の月見露天風呂もこれまで行った温泉宿と比べると見劣りがする大きさと設えに思う。至るところに精一杯工夫が見られるのだが、どれもそこそこの質のモノで、それらを組み合わせてなんとか見栄えを良くしようとしているといったところ。これで1泊2食1万7千円かと思うと、正直外してしまったように感じた。

リピーターも多いというから、少し頭をかしげていた。それまで見た限りではリピートする理由がない。東京から2時間行けばもっと良い宿はいくらでもある。


18時になり、部屋で夕食を頂いた。非常に丁寧な若者が料理の説明をしてくれる。綺麗な和紙に長月の献立が記されている。組み立ては会席。どれも目と舌とで味わう料理。主菜は鮑の踊り焼き、地場の魚の船盛に伊勢海老の刺身。てっきり3種の主菜のうちの1種が出されるのかと思っていたが全部と知って驚いた。2人しかいないのに立派な船盛を出してくれ、しかも魚も無理に鮪などを出さずにすぐ傍の漁港から直接買い付ける新鮮な地場の魚。飛魚、鰆、鰤、鯖、さざえなど。鮑も一番味が良いからと大きくなり過ぎないものが選ばれている。

豪華な主菜も大変嬉しかったが、それ以上に感心したのがその他の料理の味。例えば夏野菜も玉蜀黍の茹で具合が絶妙でシャクシャクと甘く美味しい。銀杏や里芋も甘くホッコリとする。蛤の酒蒸も蛤以上に出汁の味に夢中になった。酢の物や凌ぎも無口になる美味しさ。主役の派手な食材に負けず劣らず気が配られていて美味しいのが嬉しい。当然、ご飯は皆粒が立っていて丁度良かった。フィリピンにいたからだとか、とても空腹だったからだとか、それらを差し引いても美味しい。


デザートの段になり、部屋の電気が消されサプライズで誕生日ケーキが運ばれてきた。当日にこっそり頼んだのだが、当日だった故に手配できるかわからないと聞いていた。「うちの料理人も感動しまして是非シャンパンをサービスさせて頂くことにしました」ささやかなプレゼントも渡し、無事誕生日を祝うことが出来た。

これはリピーターになる。納得。写真に写してもわからない価値で溢れている。豪華な夕食の写真は大抵の旅館が載せているけれども、細々とした食材への気配りや素材自体の質はわからない。そして接客の気持ち良さは決して写真で伝わることはない。写真で見る限り先進国と全く引けをとらない中国だが、旅行後なんとなく不快感が残るのは施設は立派だが接客に笑顔がなかったり細部に乱雑さが見えるからだろう。同様に写真で見ると立派な風呂と御馳走なのだがそこまで良く感じない旅館もある。この旅館はその逆を行く。

なんとも幸せな気分にさせて頂いた。